マハトマ・ガンジー(ガンディー)の子孫 は現在も多数生存しており、その一部はインド国内・国外で世に名を残すような活躍をしています。
当記事ではガンジーの4人の息子たちと、それぞれの息子の家系に生まれた子孫について説明しています。更に、映画で有名になった長男ハリラール・ガンジーの、父親との確執とその後の人生についても触れています。
知恵袋で見た勘違い投稿
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大間違いであるにもかかわらず、この投稿が「ベストアンサー」に選ばれていました。
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ガンジーの子孫 まとめ
結論から言いますと、マハトマ・ガンジーには4人の息子がいました。
マハトマ・ガンジーと奥さんのカストゥルバ・ガンジーの間に最初に産まれたお子さんは、悲しいことに産まれて数日で亡くなってしまったようです。その後に生まれた4人のお子さん(いずれも男の子)無事に成人して子孫を残しています。
産まれ順に紹介していきます。
長男 ハリラール・ガンジー(1888〜1948)
マハトマ・ガンジーがまだ若い頃、英国留学に旅立つ前に産まれた長男がハリラールさんです。生まれたばかりのハリラールと奥さんのカストゥルバをインドに置いて(奥さんは実家を頼ったと思われますが)、マハトマ・ガンジーは英国留学に出かけてしまいました。
父親が率いるインド独立運動に参加し、1908年から1911年の間に英国植民地政府によって何度も投獄されたハリラールですが、父とのイデオロギー的・個人的対立に苦しみ、アルコール依存症と経済難の人生を歩んだことが「ガンジー、我が父(Gandhi My Father)」という映画によってよく知られるようになりました。
ハリラールが父親に反発し始めるきっかけとなったのは、父親であるマハトマ・ガンジーがハリラールの英国留学に反対したことだと言われています。ハリラールさんが自力で留学のスポンサーまで見つけてきたのに、マハトマ・ガンジーは「俺は英国留学したが、お前はあんな勉強はする必要ない」と猛反対した挙句、ハリラールさんの留学資金で別の若者を留学させてしまったとか。それは怒りますね…
その頃からハリラールさんは飲酒を始めたり(禁酒のお父さんへの反発)、肉食を始めたり(菜食のお父さんへの反発)、とにかく父親とは正反対のことをし始めます。
48歳の時にはイスラム教に改宗し「アブドラー」と改名するなど、成人してからもかなりの迷走っぷりです。59歳の時にムンバイの売春街で意識を失くしているところを発見され、運びこまれた入院先で亡くなっています。直接の死因は結核で、このことからも余程貧しい生活をしていたことが伺えます。
ハリラール・ガンジーの子どもたち(マハトマ・ガンジーの孫)
ハリラールさんは早くに結婚し5人の子供に恵まれましたが、そのうち2人のお子さんは幼少期に亡くなってしまっています。無事成人した3人のお子さんからは、合計7人の孫(マハトマ・ガンジーから見ると曾孫)が産まれています。
貧困であまり教育に力を入れてあげられなかったのが理由なのか、ガンジーの次男〜四男の子どもたちが歴史に名を残すような活動をしているのに対し(比較してはいけないのですが)、長男ハリラール・ガンジーの子どもたちのその後についてはほとんど情報がありません。
次男 マニラール・ガンジー(1892~1956)
次男マニラールさんもインドで産まれ、長男と同様お父さんがいない環境(当時、マハトマ・ガンジーは南アフリカで弁護士をしていました)で幼少期を過ごしていますが、長男ハリラールさんほどはお父さんとの関係が拗れなかったようです。
南アフリカ共和国で発刊されていたインド系住民向けの新聞社でジャーナリストとして活躍し、父と一緒にインド独立運動に積極的に参加。ガンジーによる「塩の行進」の最初の参加者の1人でした。お兄さんのハリラール同様、イギリス植民地政府に何度も投獄されています。
南アフリカ共和国で出会ったムスリムの女性を好きになるのですが、お父さんに反対されて結婚を断念。のちにお父さんにが勧めたヒンズー教徒の女性とお見合い結婚し、3人の子供(上の娘、息子、下の娘)に恵まれています。
マニラール・ガンジーの子どもたち(マハトマ・ガンジーの孫)
マニラール・ガンジーの息子、アルンさん(マハトマ・ガンジーの孫にあたる)はごく最近(2023年5月)までご存命でした。彼の2人のお子さん(マニラールの孫・マハトマ・ガンジーの曾孫)は今も生きており、そのうちトゥシャールさんはインドで政治家・著述家として活動しています。
マニラール・ガンジーの末っ子、エラさんは2023年7月現在、83歳の現役で南アフリカの政治活動家として活躍していらっしゃいます。
マニラール・ガンジーの上の娘のシータさんについてはあまり情報がないのですが、シータさんのお子さん(マニラールの孫・マハトマ・ガンジーの曾孫)であるウマさんがマニラールさんの伝記を出版されています。
三男 ラムダス・ガンジー(1897〜1969)
マハトマ・ガンジー一家が南アフリカに移ってから現地で産まれた三男です。お父さんが運営するアシュラムで育ち、お父さん率いる独立運動にも参加しお兄さんたち同様何度も投獄されましたが、マハトマ・ガンジーの質素な暮らしへの極端なこだわりには共感しておらず、どちらかというと大っぴらに批判していたようです。
ラムダス・ガンジーの子どもたち(マハトマ・ガンジーの孫)
ラムダスさんは結婚して3人の子供に恵まれました。そのうち息子のカヌさん(マハトマ・ガンジーからみると孫)は米国のマサチューセッツ工科大学で修士号をとって科学者となり、NASAで航空機の設計に従事していたようです。
四男 デーヴダス・ガンジー(1900〜1957)
ラムダスさん同様、南アフリカ産まれ。インドの大手新聞社でジャーナリストおよび編集者として活躍しました。
28歳の時にお父さんの同僚の娘(15歳)と恋に落ちましたが、相手が若すぎるためにその時点では結婚に双方の両親から反対されます。「5年間待て、その間はお互いに一度も会うな」と両家から命じられ、本当にその間一度も会わなかったのかどうかは不明ですが、無事5年後に結婚し、4人の子供に恵まれています。
デーヴダス・ガンジーの子どもたち(マハトマ・ガンジーの孫)
デーヴダスさんの子供たち(マハトマ・ガンジーの孫)は歴史家、著名な外交官、哲学家などそれぞれに歴史に名を残す人物となり、合計で少なくとも4人の曾孫が生まれていることを確認できます。
まとめ
マハトマ・ガンジーが禁欲生活に入ったのは4人(亡くなった赤ちゃんを含めると5人)のお子さんが産まれた後でした。4人の息子さんからは多くの子孫が生まれ、インド独立の父のDNAはしっかりと今の世代に受け継がれています。
マハトマ・ガンジーの自伝を読むと、後年のマハトマ・ガンジーが禁欲生活を始めるに至った赤裸々な理由が笑ってしまうほど正直に記されています。
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